WEBセールスプランナー
長嶺圭一郎
自然体で活動しながらも力強く売上を上げられる事業者を増やすために
多くのタスクをスケジューリングしてバリバリ仕事をこなす日常を送っている人達が、BBQを楽しみつつ親交を深める。というのは建て前で、和気あいあいとしながらも皆、ビジネスチャンスを狙っているのだろうか?開始時間ギリギリに着いてしまったけれど、もう出遅れてしまっているのだろうか?いや、そもそも私のようなフリーになったばかりのひよっこが、顔を出しても良い場なのだろうか・・。そんなことを考えながら会場に着いて驚いた。
誰もいなかった。
そういえば長嶺さんのオフィスのあるビルのオーナーがドアを開け、屋上に案内してくれたとき「けいちゃーん!お客さん来たよー」と声をかけていた。 もうそこから想像とは違う、ほのぼのとした雰囲気を感じていた。そして屋上では、「けいちゃん」こと長嶺さんがひとりで肉を焼いていた。
プロフィールにあった「重度の人見知り」と「元住宅トップセールス」が頭をかすめる。初対面が苦手で、名刺交換では緊張のあまり話せないと書いてあった。大丈夫だろうか?様子を伺いつつ挨拶をすると「ああ、こんにちは!お会いするのは初めてでしたね」とにこやかに出迎えてくれた。やっぱり元トップセールス、余裕の笑みか?しかし、私も「インタビュアーなのに人見知りで引っ込み思案」という特異体質なのでわかる。人見知りの人にとって初対面でのフリートークは大変なはず。「次は何を話す?」「このあとどうすればいい?」「もしかして飽きてないか?」と、にこやかにしつつも頭はフル回転。オンラインセミナーでは事前に練った内容を流れるようなトークでスムーズに伝えているけれど、今のようなフリーの状況はきっとキツイだろう。その証拠に「会話」よりも「微妙な間」のほうが饒舌に、次どうする?このあと何を話す?という戸惑いを語っている。人見知り、そして繊細で気遣いができる人のあるあるだ。
用意されていたイスは8脚ほど。長嶺さんのお客さんは私ともうひとりで、あとはこのビルのオーナーが招いた人らしい。ビジネス色は消えて和気あいあい確定である。メンバーが揃うまでの間、長嶺さんはバーベキューグリルの蓋を開け、大きな塊肉に棒を刺して真剣に見つめていた。その姿を遠目にして初めて「思っていたよりも大きい人なんだな」と思った。
私は幼い頃から、威圧感を感じてしまうので大きな男の人は苦手である。でも長嶺さんからはそういうものを感じなかった。そういえば以前、背の高いデパートの外商さんにインタビューしたとき、同じことを感じた。理由を聞いてみると「お客様に威圧感を与えてしまってはいけないので、姿勢・声のトーン・距離感など気を付けています」と語っていた。きっとそういう細かいことにも気を配れるところが、トップセールスマンたる所以なのだろう。
しばらくするとゲストが揃ってきた。英会話講師、デザイナー、画家、フォトグラファーと職種はさまざまだが、皆がこの場を楽しもうと温かい空気を作っていて心地良い。やはり似たような人が集うものなのだ。焼けたローストビーフを長嶺さんが切り分ける。ピンク色の断面が現れ肉汁が滴る様子に「うわぁ、美味しそう」と歓声が上がり、各々手を伸ばす。うん、美味しそう。だけど・・私は躊躇していた。
人一倍胃腸が弱く、スーパーで買ってきたローストビーフを家族で食べてただひとり、お腹を壊したこともあるのだ。食べたい。でも不安がよぎる。もしダメだったら瞬殺なので、会話を楽しむどころではなく、トイレとお友達になってしまう。別に、取り分けてどうぞと差し出されているわけではない。嫌なら手を出さなきゃいいだけのこと。でも食べたい。
長嶺さんは肉芯温度計なるものを使って「牛肉は○○度になったらOKなんですよ」と説明し、念入りに温度を測っていた。きっとおいしい肉をふるまうためにしっかりと準備をしてくれていたのだろう。そしてプロフィールページには
「ビビり・小心者・どヘタレ」
の文字が並んでいたのを思い出した。ビビり・小心者・どヘタレなら、自分がふるまった肉で食中毒など起こしたら、恐ろしくて二度とBBQなどできないはず。私が想像する以上に細心の注意を払っているだろう。つまり
「このローストビーフは食べてもOK!」
ということでありがたくほおばった。
おいしーい!
ローストビーフってこんなに美味しいの?
私がこれまで食べたローストビーフは薄くカットされたものだった。しかし、この肉は贅沢にも厚めにカットされていて、それなのに口あたりが柔らかく、噛むと赤身のうまみが口いっぱいに広がった。肉の醍醐味を味わっている、そんな感じだ。調子に乗った私は、これまた苦手なバナナを真っ黒になるまで焼いた「焼きバナナ」もいただいた。わざわざ冷やし、シナモンシュガーまでかけておめかしまでしてある。今度は期待しつつ口に運んでみた。
おいしい!!
バナナには失礼だがもはやバナナではない。完成されたスイーツだ。その後しっかり皆さんと会話も楽しみ、充実した一日に私は大満足で帰途についたのだった。
しかし振り返ってみれば、ボリューム満点で豪華な内容、手間を考えれば完全に採算度外視のBBQ。
一方WEBセールスプランナーとしての長嶺さんは作業の効率化について余念がない。それはおそらくお客さんの役に立つ情報を得るのに自ら学び、実践し、専門的なこともかみ砕いて、初心者にもわかりやすく伝えるため、膨大なタスクをこなさなければならないからだ。相当の時間と労力を費やしていることは想像に難くない。それくらい情報提供量がすさまじく、しかも最新情報を伝えるのも早い。そういう人なのにわざわざコストのかかるBBQを続けているのはなぜなのか?それは人との関わりを重要視しているからではないだろうか。
今はオンラインで世界中の人と繋がることができる。
しかしその場で一緒に同じものを見て、同じものを食べ、同じ時を過ごすから伝わるものも確かにある。そういう、目には見えない人の心の内側にあるものを、時間やお金や労力というコストより大切に考えているのが長嶺さんという人なのだ。
実際に会ってみると、決して器用だったり、要領のいいタイプではない。数字を追いかけるWEBセールスプランナー・元トップセールスのイメージとも違う。おそらく小心者だからこそお客様に自信を持って販売できるよう、自らが努力を重ね続けている。自分を選んでくれたお客様の期待に応えるためにサービスの質を向上し続けている。
私もサービスを提供する人間としてこれから成長していかなくてはならない。その不安を口にすると思わぬ言葉が返ってきた。
「僕も新しい仕事は背伸びをして取り組んでいるんですよ」
そうだ、個人事業主はきっと挑戦と試行錯誤の連続。そして背伸びをして実績を積み上げ大きくなり、また背伸びをする。そんな私たちの手助けをするために、長嶺さんはビビりつつも新しい情報を取りに行ったり自ら学んで実践し、お客様である事業者が歩を進めやすいよう道を拓いている。
長嶺さんを信じ、少しだけ勇気を出してローストビーフを口に運んだから、私は美味しいお肉を味わって、新しい扉を開くことができた。ひよっこ事業者がすべきことは自分を信じて行動すること。そうして歩き続けた先にはきっと、成長した自分が微笑みながら待ってくれているだろう。
スケッチジャーナリスト
大角真子
私も人物の絵を描くが、そこには必ず意図がある。「ああ、この子の柔らかな頬の曲線を描きたい」「愁いを帯びたまなざし、無表情に見えるけれど心の奥底にある悲しみを表現したい」など、絵は自分の心が惹かれたものを表す手段だと言ってもいい。逆にそういうものがないと何を描いたら良いのかわからない。おそらく写真ですら撮影をするときには意図がある。撮影者が場面を切り取るとき、なんらかの思惑があるはずだ。しかし真子さんはそうではないらしい。私にとって衝撃的なことだった。ではどうやって絵を描き始めるのか?聞けば「とにかくペンを走らせる」と言う。そこに彼女の意図はない。いやむしろ、フラットであることを心掛けているのかもしれない。眼に映るものに忠実に、無心で描いていく。
彼女は著書で思考が偏ることを恐れていると言っている。社会や環境に対して、取り返しのつかない行為を行ってしまうことも。だから誰にも忖度することなく、自分が美しい行為であると信じたことだけをするために組織には属さない選択をしている。日本は島国であるからか、私達を取り巻く社会は「集団」に対して誘因性や権力を感じやすいように思える。大きな集団に入っていれば、とりあえず安心だと考えたり、少数派であると心細く感じたり。そして力のある集団に属することを目的にする人や、自分の考えを持たないまま大きな流れに乗ってしまう人もいる。確かに違う価値観を理解するには努力が必要であるし、同じ価値観の人と一緒にいる方がラクだ。しかも違う価値観を持つ人が少数派なら、理解するより排除する判断がされることもある。しかし全く同じ人間など存在しない。100人いれば100通りの考え方がある。似た意見はあれど、突き詰めればひとりひとり違う。同じものを見ても感想はそれぞれだし、同じ音楽を聴いても皆いろいろな表情を浮かべるだろう。そしてそれを忠実にスケッチしたいと、ただペンを走らせるのが真子さんなのだ。
イラストレーターは自分の世界を表現するためにイメージを膨らませ、象徴的なものを描いたりするという点で絵の主導権を握っている。それに対し、目の前の情景を見たままにスケッチしていく真子さんの絵に描き手の意図はない。何が描かれるのか、おそらくその時にならないとわからない。なぜなら彼女が大切にしているのは、確かにその瞬間にある現実だからだ。ジャーナリストには日々の出来事を記録する人という意味があり、真子さんが「スケッチジャーナリスト」と名乗る所以はそこにあるのだろう。そして眼前にいる人やモノを忠実に描いていくという行為の根底にあるのは、その存在に対する敬意なのではないだろうか。彼女の前にいる人を自分の世界観を表現するために変化させるのではなく、その人のあり様をそのままにスケッチしていく。それはその人の存在をまるごと受け入れるということだ。
真子さんは著書の中で「私が私のまま、受け入れてもらえないのは、とてもさみしいことです」と語っている。親子でも親友でも、どんなに近い間柄であろうと別個体である以上、すべてを理解するのはおそらく不可能だ。ましてや生まれた地域や育ってきた環境も違い、異なった意見を持つ人を受け入れることは容易ではない。しかし、自分の前にいる人が何に喜びや哀しみや楽しみを感じるのか、安易に「わからない」と突き放すのではなく理解しようと努めることは、地球上の「誰一人取り残さない」という考えのもとに作られたSDGsに通じるものがある。真子さんはタスマニアに留学し、様々な国の人とシェアハウスで暮らす経験をしている。意見が違っても相手を尊重し、お互いなんとか落としどころを見つけ、話し合いが終われば同じ食卓で笑って食事を楽しむことができたのは、目の前の人をそのまま受け入れようとする姿勢があったからなのだ。
真子さんは今ある現実の風景だけでなく、その場所の未来がもっとよくなるように丁寧に聴いて集めた人々の声をもとに、空想スケッチで未来への提案をビジュアル化している。百聞は一見に如かずというが、言葉だけでなく視覚からのアプローチで人々はよりイメージしやすくなり、共通の認識を得ることができるだろう。加えて更なる発想も生み出すかもしれない。
多様な人々がそれぞれ心地よく暮らしていける社会にするには、社会通念という枠に人を当てはめるのではなく、ひとりひとりの声や想いを大切に扱う社会を目指さなければならない。その第一歩として私達に出来ることは、周りの人に目を向け都合の悪いものから目をそらさない意識を持つことだと「スケッチジャーナリスト真子」は教えてくれているのである。